遊離した創造は嫌いだ
他の連中は作品を差出すがいい、私はここに私の精神以外のなにものをも示す気はないのだ。
生きるとは、もろもろの問を燃えあがらすことだ。
私は作品を生から遊離してあるものとは考えない。
私は遊離した創造は嫌いだ。私はまた、精神がおのれ自身から遊離してあるものだとも考えない。私の作品の一つ一つ、私自身のさまざまな面の一つ一つ、私の内なる魂の氷室の開花の一つ一つが、私に対して悪態をつく。
私は、わが内部に生じる狭窄や、わが生の理不尽な去勢について説明するために書く手紙の中にも、また私自身の外部にあって、惰性的なわが精神的なわが精神の妊娠と見えるエッセーの中にも、等しく私そのものを見出す。
私は精神が生の中になく、生が精神でないことに苦しむ。私は、器官にすぎぬ精神、解釈にすぎぬ精神、事物脅喝者にすぎぬ精神を、なんとかして精神そのものの中に入れようと苦心惨胆する。
この本を、私は生のまっただなかに宙ぶらりんにさせてやろう。私はこれが、外部の事物によって、そうだ、何よりもまず、あらゆるヤットコの跳躍や、来たるべきわが自我のすべてのまばたきによって、噛みつかれることを願う。
これらのページはすべて、精神の中を氷塊のように徘徊する。わが絶対の自由を許されよ。私は私自身のいずれの十秒をも区別することをみずからに禁じる。私は精神に局面というものを認めない。
文学と同様精神とも手を切らねばならぬ。私が言っているのは、精神と生とは、あらゆる度合いで伝達するということだ。私はねがわくば人びとを狼狽させる本を作りたい。ひとつの開かれた扉であり、人々が決して行きたがらなかったはずのところへかれらを導く扉であり、つまり単純に現実に接している扉である本を。
かくてこれは、一冊の本のための単なる序文ではないし、さりとてたとえば、本の中にずらずら並ぶ詩篇でも、 不快のあらゆる激怒の列挙でもない。
これは、ひどく呑みそこねた一個の氷塊にほかならない。
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』現代思潮社 1971年
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