芸術論の可能性の枯渇の期日を新たに設定することに耐えなければならない
現代の芸術家は二つの様式によって沈黙を擁護する──声高の様式と静かな様式と。
声高の様式は、『充満』と『真空』の不安定なアンチテーゼに関する機能である。充満についての感覚的、陶酔的、超言語的理解が脆弱であることは周知のことだ。充満は、わずか一瞬にして崩れ去り、否定的沈黙の真空の中に突入することができる。危険をあえて冒しているということを十分承知の上で(精神的嘔吐について、さらに狂気についての危険)、この種の沈黙の声高の擁護は、逆上した、一般化しすぎたものとなりやすい。それはまた、しばしば黙示録的であり、あらゆる黙示録的思考の侮辱に耐えなければならない。すなわち、終局を予言すること、その日が来るのを見、その日を生き延び、そしてさらに、意識の焼却、言語の決定的な汚染、芸術論の可能性の枯渇の期日を新たに設定することに耐えなければならない。
沈黙についてのもう一つの語り方は、これよりは慎重である。基本的には、これは伝統的古典主義の主要な特徴の延長として現れる──礼節のさまざまな様式、見た目のよさへの規準への関心。沈黙はn度まで昇りつめた『慎み深さ』にすぎない。もちろん、この関心を伝統的古典主義芸術の母体から転移させるに際して、音調は──教訓的まじめさから皮肉な開放的精神へと──変化した。しかし、沈黙の修辞学を宣言する騒々しい文体の方が一層情熱的に見えるにしても、物静かな沈黙の擁護者(たとえばケイジ、ジャスパー・ジョーンズ)もまた同じくらいに過激なことを言っているのである。彼らは芸術の絶対的願望という同じ思想に反応しているのであり(計画的に芸術を否認することによって)、彼らもまた同じく、ブルジョワ合理主義者の文化によって確立された『意味』に対する、同じ嫌悪感、まさに常識的な意味での文化そのものへの嫌悪感を持っている。未来派、ダダイズムの芸術家のある者、およびバロウズなどが、激しい絶望、倒錯的なアポカリプス観として述べていることは、それがおとなしい声で、しかも冗談めかした主張の一部として提唱されているからといって、それでまじめさが減じるわけではない。まさに、沈黙は、相当な、ほとんど組織的なアイロニーをこめて展開されるときにのみ、現代の芸術と意識にとって発育可能な概念として残るであろう。とさえ言える。
スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイル』晶文社 1974年
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