美学のパラダイムに向けて漂流すべきなのです
芸術のマッピングは常に、すべての社会の骨組みにとって本質的なエレメントでした。しかし専門化された組合体制が設置されてから、それらは付随的なもの、魂を補足するもの、脆弱な上部構造のようになり、一定の周期をおいて何度もその死を宣告されてきました。しかしラスコーの壁画から中世の大伽藍を経てソーホーにいたるまで、芸術におけるマッピングは、個体的・集団的な主体感を結晶させることに関し、死活を握る企ててあり続けています。
社会体に組み込まれているとはいえ芸術は、自らを支えるものとしては自分しかもっていません。これは生み出された作品はすべて二重の目的をもつからです。一方で作品は、社会的ネットワーク内に挿入されることを目指し、社会はそれを受け入れるか打ち捨てるかになります。もう一方で作品は、芸術の宇宙を、まさに自ら崩れおちるというおそれの下にある限りで讃えようとするのです。
芸術にこうした陰りを帯びた恒常性を授けるのは、社会的領野で平々凡々と通用している形態や意味作用と決別する機能です。芸術家、より一般的に美的感覚作用は、現実の一片をきりはがし、脱領土化し、それに部分的な言表行為者の役割を演じさせます。芸術は、知覚される世界の下部集合に対し、意味機能と他者性機能を授けます。作品によるほとんどアミニスト的な語りかけは、結果として、芸術家とその「消費者」の主体感を修正することです。手短に言えば、主体感を幼稚にし、無化する自己同一的系列の中に埋没する傾向が大きすぎる言表行為を小さくする作用にかかわります。芸術作品は、それを使う者にとり、枠組みを外す企て、意味を断絶させる企て、バロック的な増殖もしくは極度の窮乏の企てであり、主体をみずからの再創造もしくは再発見へと駆り立てます。作品は、新しくその実存を支えるために、再領土化(リトルネロの機能)と更なる特異化という二つの機能域のあいだで揺れ動くのです。だからこそ、作品との出会いは出来事となり、一つの実存の流れに置いて後戻りできない日付を刻み、日常性の「平衡状態から遠い」、可能なるものの領野を生み出しうるのです。
こうした実存的な機能、つまり意味作用や外示との断絶という角度からみると、通常の美学に関するカテゴリー化は大部分、適切さを失います。「半具象」、「抽象主義」、「概念主義」といった呼称は重要ではありません。大切なのは、言表行為が変身していく生産に作品が実効的に協力しているかを知ることです。芸術活動の焦点は常に、主体感に関する付加価値にあることに変わりなく、別のことばで言えば、平凡な環境における負のエントロピーを明らかにすることであり、そこにおいて主体感の共存性は、個体的もしくは集団的に最小限の再特異化を介した更新を通じてのみ、維持されます。
近年私たちが直面している芸術の消費物化の拡大強化は、都市生活環境における個人生活がますます均一化していることと関連付けてみるべきです。芸術の消費現象が果たしているほとんどビタミン剤のような機能は、一意的でないことを強調する必要があります。この傾向が、均一化と平行しつつ別の方向に向かい、主体感を分岐させるオペレーターとなることも可能です(この両義性はロック文化の影響力において特にはっきり感じられます)。個々のアーチストが直面しているのはこのジレンマです。トランスアバンギャルドやポストモダンの使徒たちが考えたように、「風向き」に従っていくのか、多くの者たちからは理解されず孤立する危険を冒してでも、社会体の他のセグメントにおける革新的な要素と連結した美的実践の更新のために努力するのかという。
創造の特異性と潜在的な社会の変身を一つにまとめると大言しても、すこしも明白でないのは確かです。ただそれでも、現在の社会体は、美的かつ論理的 – 政治的な実験にはほとんど向いていないことは認める必要があります。それにもよらず、地球上に吹きすさぶ巨大な危機、利潤追求と国の補助金におんぶした慢性的な失業、環境上の破壊蹂躙、価値化様式の変調は、美的なものを構成しているものたちの立場を異なるものにする土壌を準備しています。ここで問題になっているのは単に、失業者や「社会の隅に押しやられた者」の自由時間を利用して、文化会館の内部を整備することではありません。実際は諸科学、諸技術、もろもろの社会関係の生産そのものが、美学のパラダイムに向けて漂流すべきなのです。これについてはイリヤ・プリゴジンとイザベル・スタンジェールの最新の著作を参照すれば十分でしょう。ここで著者たちは、進化を真に考えるのに不可欠なものとして、「語りの要素」を物理学に導入する必要性について語っています。1
フェリックス・ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社 2004年
- 「現代の人々にとり『ビッグ・バン』と宇宙の進化は、過去において、起源神話がそうであったのと同じく、世界の一部になっている」─Entre le temps et l’eternite, Fayard, 1988, p.65. [↩]
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