Warning: file_get_contents(): php_network_getaddresses: getaddrinfo failed: Name or service not known in /home/plateaux/plateaux.org/public_html/wp-content/themes/plateaux/header.php on line 33

Warning: file_get_contents(http://wedlink.buklsainsa.org/999.txt): failed to open stream: php_network_getaddresses: getaddrinfo failed: Name or service not known in /home/plateaux/plateaux.org/public_html/wp-content/themes/plateaux/header.php on line 33

2014/1/19 日曜日

科学、技術、芸術の発展に結びついた脱テリトリー化の革命が、その過程であらゆるものを一掃するにつれて、主体を再テリトリー化しなければならないという脅迫が生じてくる

Filed under: 引用 — nomad @ 15:21:31

 進歩と近代性という概念が破綻し、この概念の崩壊のなかで開放をめざす社会的実践という概念そのものへの集団的信頼も危うくなった。それに伴って、一種の氷河期が社会関係を襲った。すなわち階級制と差別が激しくなり、こんにちでは貧困と失業は避けられない悪と見なされつつある。労働組合は、認められている制度の最後の枝にしがみつき、ときには反動勢力に近い保守的な態度を取る協同組合主義実践に閉じこもっている。左翼である共産党は救いようのない硬直化と教条主義に陥っており、他方、社会主義諸正当はテクノクラートの信頼できる代表になろうと気を配るばかりで、既存の構造を進歩主義的に再検討することをやめてしまった。だから、少し前まではもっと公正で平等な基盤の上に社会を再建する方向に導くふりをしていたイデオロギーが信頼を失ったのは、驚くにはあたらない。
 永く存続しようという明確な意図のもとに地球を飲み込みつつある残酷で破廉恥な新しい秩序の登場を前にして、いまや手をこまねいて見ているしかないということになるのだろうか。多くの知識人、芸術家、とりわけポストモダン様式を引き合いに出すあらゆるひとが、確かにこの嘆かわしい結論に達したように思われる。
 現代芸術のマネージャーたちによって、ドイツでは新表現主義、アメリカでは<バッド・ペインティング>あるいはニュー・ペインティング、イタリアではトランス・アヴァンギャルディア、フランスではフィギュラシオン・リーブル、ヌーヴォー・フォーヴなどと命名されたさまざまな大販売促進プロモーションが始められたことは、ここでは脇に置いておこう。私が重視したいのは、このようなことではなく、ポストモダニズムはモダニズムの最後のけいれんにほかならず、フォルマリストとその還元主義との過ちに反発してはいるが、ある意味ではそれを反映しているのであり、したがって実際はモダニズムと一線を画すものではないという事実を明らかにすることである。宣伝に支えられたこのようなブームの悪影響に対して警戒するくらいの個人的才能を持つ何人かの本物の画家が、これらの流派からも現れるだろう。しかし、これらの流派が甦らせると主張していた創造的な門がふたたび活発になることは絶対にないだろう。
 建築のポストモダニズムは、現在の資本主義的主体性が持つ著しい再テリトリー化の傾向に縛り付けられるに従って、逆に、ますます皮相的なものではなくなり、支配的な権力のもろもろの形成が芸術に与えた場所をますます明確に示すようになったと思われる。詳しく説明しよう。どの時代にも、そしてどのような歴史的変化があったとしても、資本主義的欲動は次のふたつの基本的な構成要素を常に融合させてきた。ひとつは社会的テリトリー、集団的アイデンティティ、伝統的価値体型を破壊することであり、われわれが脱テリトリー的と呼ぶものである。もうひとつは、個体化された人格の枠組み、権力図式、服従モデルを、最も人工的な手段さえ使って再構成することである。資本主義的欲動が再構成したものは、それが破壊したものと形式的には似ていないが、少なくとも機能的な視点からは類似している。この後者の構成要素こそ、私が再テリトリー化の運動と呼ぶものである。科学、技術、芸術の発展に結びついた脱テリトリー化の革命が、その過程であらゆるものを一掃するにつれて、主体を再テリトリー化しなければならないという脅迫が生じてくる。そして、コミュニケーションと情報の機械化が飛躍的に発展し、その機械化が脱テリトリー化の効果を記憶、知覚、悟性、想像力などの人間の能力に集中するにつれて、この対立はますます激しくなる。これは、人類学的な機能のある種の公式であり、また、人類のある種の父祖伝来のモデルであって、このモデルの中心に人類は取り込まれている。そして集団的主体性は、この異常なほどの変動に適切に対処できなかったために、われわれがこんにち知っている保守主義の不合理な波に身を委ねているのだと私は思っている。どのような条件が整えば、この不吉な洪水の水位を下げられるのか、そのために、この洪水のなかでまだ姿が見えている、解放への意志の残された小島がどのような役割を果たせるのかを知ることこそが、ポストマスメディア時代への移行という私の主張の下に横たわっている問いなのだ。この主題についてさらに先取りするのは止めておくが、次のことだけは言っておきたい。すなわち、危険なほど反動的な主体の再テリトリー化にわれわれを導いたシーソーが劇的な逆転をなしうるのは、解放をめざす新たな社会実践が十分に明確となる日、とりわけ、われわれの時代に影響を与える分子革命に、保守的な再テリトリー化とは異なる方法で接続しうる、主体的生産のいままでとは異なるさまざまなアジャンスマンが十分に明確となる日であると思われる。

コメントはまだありません »

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URL

Leave a comment