新しい生を創造することができなければならない
対抗的である人びとは、みずからの人間的条件の局地的かつ個別的な制約から逃れながら、さらに新しい身体と新しい生を構築することをたえず試みなければならない。こうした試みは必然的に暴力的で野蛮な移行であるほかないが、しかし、それはヴォルター・ベンヤミンの言うように、能動的な野蛮である。「野蛮? そのとおりである。われわれは、ここで、野蛮という言葉に新しいポジティブな概念を導入しなければならない。経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかない。」新しい野蛮人は、「何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれは、いたるところに道が見える。他の人びとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、彼自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものを彼は瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫の中を縫う道なのだ1 。新しい野蛮人たちは肯定的な暴力をもって破壊を行い、自分自身の物質的な存在を介して新しい生の道筋を見つけ出すのである。
こうした野蛮な態勢は人間の関係性一般に影響を及ぼしているが、しかし今日、私たちは何よりもまずそれを、ジェンダーとセクシュアリティに関する身体的関係や配置に認めることができる2 。ジェンダー間および各々のジェンダー内部の身体的・性的諸関係にまつわる慣習的な諸規範は、ますます挑戦と変容にさらされるようになっている。諸々の身体そのものが、変容や突然変異を遂げることによって、新しい脱人間的(ポスト・ヒューマン)な身体を創出しているのである3 。こうした身体的変容の第一の条件となるのは、人間的自然はけっして全体としての自然から切り離すことはできないということ、そしてまた、人間と動物、人間と機械、男性と女性等々のあいだに固定した必然的な境界など存在しないということを認めるということである。すなわちそれは、自然そのものがたえず新たな変異・混交・混成化へと開かれた人工的領域である、という認識をもつことなのだ4 。私たちは、たとえばドラァグな服装をすることで意識的に伝統的な諸境界を撹乱するばかりでななく、境界の隙間を境界など顧みずに移動し、創造的かつ不確定な帯域の真只中を移動しているのである。今日における身体の変異は、人間学的脱出を構成するものであり、<帝国>的文明に「対抗する」共和主義を形成するための、途方もなく重要ではあるがいまだかなり曖昧な要素を表している。人間学的脱出が重要なのは、とりわけ、変異の積極的かつ構成的な相貌──すなわち、現に進行中の存在論的変異、最初の非−場における新しい場の具体的発明──が出現しはじめているからだ。この創造的進化はたんに既存の場所を占めるのではなく、むしろ新しい場所を発見するのである。言いかえれば、まさに欲望こそが、新しい身体を創造するのであり、まさに変態(メタモルフォシス)こそが近代性の自然主義的な相同性のすべてを断ち切るのである。
けれども、この人間学的脱出という概念は、いまだきわめて曖昧なものである。なぜなら、その方法、つまり、混在性と変異そのものが、<帝国>的主権が用いている当の方法にほかならないからだ。たとえば、サイバーパンクの描くダークな世界においては、自分を改造する自由は周囲を埋め尽くすコントロールの権力と往々にして見分けがつかないのである5 。たしかに私たちは、おそらくはサイバーパンクの作家たちが創造するよりもはるかにラディカルな仕方で、みずからの身体と自分自身を変化させる必要があるだろう。現代世界において、いまやありふれたものとなっている身体のエスティティックな変異──ピアッシングやタトゥー、パンク・ファッションとその多数多様な模倣といったもの──はすべて、こうした身体的変容の初期的な徴候に当たるものだが、しかし結局のところそれらは、ここで必要とされている類いの根本的変容にはとても及ばないのである。対抗的であろうとする意志が本当に必要としているのは、指令に服従する能力のない身体である。つまりそれは、家族生活や工場の規律や伝統的な性生活の規則などに適応することのできない身体を必要としているのだ。(これらの「正常な」生活様式にあなたの身体が拒否反応を示したとしても、絶望してはならない──むしろ、そうした自分の才能を実現したまえ!6 )。とはいえ、新しい身体は、規格化を根本的に受けつけないだけではなく、新しい生を創造することができなければならない。私たちはずっと先にまで進み、たんなる混交や混成の経験やそうした経験の周囲で行われている実験をはるかに超え、そうした非−場の新たな場を規定しなければならないのだ。私たちは、首尾一貫した政治的策術を構成する地点にまで到達しなければならない。言いかえれば、私たちは、人文主義者たちが技芸(アート)と知識によって生産される二乗された人間〔ホモホモ〕について語ったような意味で、そしてまた愛を吹き込まれた最高度の意識によって生み出される強力な身体についてスピノザが語ったような意味で、人工的な生成変化を構成するまでにいたらなければならないのだ。野蛮人たちの無限の道筋は新しい生の様式を形成しなければならないのである。
しかしながら、そうしたさまざまの変容は、形態や秩序という見地から型にはめられている限りは、いつまでも弱くて曖昧なものでありつづけるだろう。混成それ自体は空虚な身振りでしかないし、秩序のたんなる拒否は無の縁のうえに私たちを放り出してしまうものでしかない──あるいはもっと悪い場合には、こうした身ぶりは<帝国>の権力に挑みかかるどころか、それを強化してしまいかねないのだ。新しい政治は、形態と秩序に関する問いから、生産の体制および実践へと焦点を移した場合にのみ、現実的な実質をあたえられるのである。生産の領域からみれば、私たちはこの流動性と人工性が特権的小集団の例外的経験をたんに表しているのではなく、むしろマルチチュードの共通の生産的経験を指し示しているということを認めることができるだろう。早くも一九世紀には、プロレタリアートたちは資本主義世界の遊牧民とみなされていたのだった7 。プロレタリアートたちの生活がひとつの地理上の場所に相変わらず固定されている場合ですら(たいていの場合、そうなのだが)、彼らの創造性と生産性は身体的、存在論的な移動をはっきりと示しているのだ。諸身体の人間学的変態は、労働の共通の経験と構成的効果と存在論的含意をすでに孕んでいる新しいテクノロジーをとおして確立される。さまざまの道具は、つねに人間の機能を補完する人口器官として存在してきたし、またそれらは労働という実践をとおして、個人的観点からしても集団的社会生活の観点からしても、一種の人間学的変異として私たちの身体に統合されてきた。現代の脱出の形態と新しい野蛮人の生は、さまざまの道具が近代的人間性の諸条件から私たちを解放しながら、生成的な人口器官になることを要求している。マルクスの方法論をめぐる先ほどの議論に立ち返るならば、内と外のあいだの弁証法が終わりを告げるとき、そしてまた、〔交換価値から〕切り離された使用価値の場所が<帝国>の地勢から消滅したとき、労働者の新しい形態は新たに人間〔まさに脱人間(ポストヒューマン)を生産するという課題を負わされることになるのである。主としてこの課題は、ますます非物質的なものになっていく情動的かつ知的な労働力の新たな諸形態をとおして、それらの労働力が構成する共同体のなかで、また、それらがプロジェクトとして差し出す人工性のなかで成し遂げられることになろう。
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート 『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 』以文社 2003年
- 最初の文章は、Walter Benjamin, “Erfahrung und Armit,” in Gesammelte Schriften, ed. Rolf Tiedemann and Hermann Schweppenhä
ussen (Frankfurt: Suhrkamp, 1972), vol. 2, pt. 1, pp. 213─210. 引用は p.215から〔ヴァルター・ベンヤミン/高原宏平訳『暴力批判論』「経験と貧困」ヴァルター・ベンヤミン著作集1、晶文社、1969年、97─109頁、引用は101頁 〕. 2番目の文章は、Benjamin. “The Destructive Character,” in Reflections, ed. Peter Demetz (New York: Schocken Books, 1978), pp. 302─303〔同/野村修訳「破壊的性格」『暴力批判論』岩波文庫、1994年、244頁〕. [↩] - セクシュアリティと性倒錯の境界横断性については, François Peraldi, ed., Polysexuality (New York: Pantheon, 1988)を見よ.アーサー・クローカーとマルリイーズ・クローカーもまた, 次のようなエッセイで, 純粋性や規格化を拒否する身体やセクシュアリティの破壊性を論じている.Arthur and Marilouise Kroker, “The Last Sex: Feminism and Outlow Bodies,” in Arthur and Marilouise Kroker, eds., The Last Sex: Feminism and Outlow Bodies (New York: St. Martin’s Press, 1993). 最後に,身体性や性を変容させる実験についての最良の資料は,おそらくキャッシー・アッカーの小説,たとえば Kathy Acker, Empire of the Senseless (New York: Grove Press, 1988)〔キャッシー・アッカー/山形浩生・久霧亜子訳『あほだら帝国』ペヨトル工房, 1993年〕だろう. [↩]
- 脱人間的な身体の組み替えについては, Judith Halberstam and Ira Livingston, “Introduction: Posthuman Bodies,” in Judith Halberstam and Ira Livingston, eds., Posthuman Bodies (Bloomington: Indiana University Press, 1995), pp. 1-19 および Steve Shaviro, The Cinematic Body (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993)を見よ.ほかにも,人間の,身体の潜勢的な組み替えをめぐる興味ぶかい探求としては,Alphonso Lingis, Foreign Bodies (New York: Routledge, 1944) がある.またステラークのパフォーマンス,たとえば Stelarc, Obsolete Body: Suspensions (Davis, Calif.: J. P. Publications, 1984) なども見よ. [↩]
- 人間・動物・機械の境界を超えたすべての仕事の基礎となったテクストは,何よりも,Donna Haraway, Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature (New York: Routledge, 1991)〔ダナ・ハラウェイ/高橋さきの訳『猿と女とサイボーグ』青土社,2000年〕および Deleuze and Guattari, Anti-Oedipus, とくに pp. 1─8〔ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ/市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社,1986年,13─21 頁〕である.1990年代には,とりわけアメリカ合衆国において,身体のノマディズムや身体の変容の政治的潜勢力についての研究が数多く出版された.それらのうち,フェミニストの手によって,きわめて異なった視点から書かれているもっとも興味ぶかい3つの例としては,Posi Braidotti, Nomadic Subjects: Embodiment and Sexual Difference in Contemporary Feminist Theory (New York: Columbia University Press, 1994); Camilla Griggers, Becoming-Woman in Postmodernity (Minneapolis: University Minnesota Press, 1996); および Anna Camaiti Hostert, Passing (Rome: Castelvecchi, 1997) を見よ. [↩]
- (管理と突然変異とは,おそらくサイバーパンク小説を決定づけるテーマだろう.その元祖となったテクスト,William Gibson, Neuromancer (New York: Ace, 1984)〔ウイリアム・ギブソン/黒丸尚訳『ニューロマンサー』ハヤカワ文庫,1986年〕を読むだけで十分だろう.けれども,これらのテーマについてのもっとも魅力的な探求は,おそらくウイリアム・バロウズの小説やデヴィッド・クローネンバーグの映画のなかに見出される.バロウズとクローネンバーグについては,Steven Shaviro, Doom Patrols: A Theoretical Fiction about Postmodernism (London: Serpent’s Tail, 1997). pp. 101─121 を見よ. [↩]
- この規格化された身体や規格化された生に抗するカウンセリングが,フェリックス・ガタリの精神治療の実践の中心的な原則である. [↩]
- 『プロレタリアはいわば西洋世界における遊牧民の後継者のように思われる.そして多くの無政府主義者が東洋に由来する遊牧的テーマを援用しているだけでなく,19世紀のブルジョアジーは好んでプロレタリアと遊牧民を同一視し,パリを遊牧民に取り憑かれた都市と見なしているのである』.Gilles Deleuze and Félix Guattari, A Thousand Plateaus, trans. Brian Massumi (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1987), p. 558 note 61〔ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ/宇野邦一ほか訳『千のプラトー』河出書房新社,1994年,620頁,注51〕. [↩]
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