だが、なぜ引用なのか
だが、なぜ引用なのか。ここで引用論はつぎのように設定されるだろう──。
おそらく現代のもっともアクチュアルな思想状況(おそらく今日の美術はそのもっとも象徴的なインデックスであるが)は、われわれがその中で語りつづけてきた、そしていまなお語りつづけている文脈そのものが問い直されているところにあるように思われる。しかし、そのようないわばメタ・クリティックは、これまでとは別の文脈の、したがってまた同時に別の論述の仮説作業と同時的でしかありえないだろう。引用論はここでそのようなものとして求められている。
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事実、《引用》は、他のいくつかのメタファー(たとえば《表面》) とたがいに関連しながら、単に美術にかぎらず、さまざまな領域を通じてあらわれる現代にきわめて特徴的なひとつのメタファーであるように思われる。このメタファーの網目を組織し、のみならず、このメタファーにいわばどこまでを強制できるかが試みられなければならないのである。
だが、なぜ引用なのか。引用について考えること、それは読むことについて考えはじめることだ。読むとはアルケー、一なる全体、《本》 へと送りとどけられることではない。それは逆に還元不能な複数性、くりかえしと差異について考えることだろう。
宮川 淳『引用の織物』 筑摩書房 1975年
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