神も動物も具えている「優美」が人間だけに欠けている
オルダス・ハックスレーは、「優美」grace の追求ということが、人間にとって中心的な存在だと述べている。彼のいう grace の意味は、新約聖書における grace の意味〔神の恩恵〕と変わらないとオルダス自身は考えていたが、しかしその説明は彼一流のものである。ウォルト・ホイットマン同様、彼もまた動物の行動とコミュニケーションに人間の失われた純良さ、素朴さを見出していた。人間の行動は、目的心や自意識からくる「あざむき」によって汚されている、おのれ自身すら人間はあざむく、その理由は動物たちがいまも持っている「優美さ」を人間が失ってしまったことにある──とオルダスは考えた。
その文脈から彼は、神を人間よりむしろ動物に近い存在に見立てている。神はあざむくことを知らず、心を乱すこともなければ、誤った考えを抱くこともないと。
神も動物も具えている「優美」が人間だけに欠けている、全存在者のなかで人間だけが唯ひとり脇にのけられている──そんな図がここから得られるようである。
この失われた「優美さ」の(部分的)回復を目指すものとして。わたしは芸術というものを位置づけたい。その試みがある程度成功するところに、芸術の至福があり、それが挫折に終わるところに芸術家の憤怒と苦悩がある、と。
わたしはまた、「優美」という大きな属のなかに、いくつもの種があるという考えを展開する。それとともに、「優美」からの逸脱、「優美」追求における失敗と挫折にもさまざまな種があると考える。各文化にはそれぞれ固有の「優美」があって、それを手にすることが、その文化を生きる最終目的であり、また挫折のかたちも各文化固有のものだということである。
文化によっては、芸術が成し遂げるべき困難な統合に背を向けて、意識か無意識かのどちらかでいけばよいという単純で粗暴な考えへ芸術家を導くところもあるだろう。しかしそこで生まれる芸術が「偉大」の域に達するのはむずかしいようだ。
優美の基本は統合であるという考えを、これから展開していく。何の統合かといえば、それは魂の部分間の統合──とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を「無意識」とする精神の多重レベル間の統合──である。「優美」を得るには、感情の理 reasons of the heart と理知の理 reasons of the reason とが統合されなくてはならない。
さきの発表でエドマンド・リーチ氏は、「一つの文化に根ざす芸術が、別の文化に育った批評家にとっても意味や妥当性を持つのはなぜか」という問いかけを行った。それに対してわたしは、芸術が「優美」、すなわち魂の統合をなんらかのかたちで表現するものなら、その成功の例が、文化の壁を越えて人の心に届くということは大いにありうるだろう、という答えを用意するものである。ネコの身のこなしの優美さは、馬の優美さと根本的に違うけれども、どちらの優美さも持たない人間にしても、両方の優美さに感応できる──という理屈である。
芸術作品が統合の挫折を表現しているケースでも、その挫折の産物が文化を超えて認知されることは、ありうることだろう。
芸術作品には、魂の統合に関する情報が、どんなかたちで込められて(コード化されて)いるのか?──これが本論で探っていく中心的疑問である。
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』新思索社 2000年
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Comments (1)
こんにちは
素敵な要約ですね。丁寧によませてもらいました。下記の引用箇所のページを知りたいのですが教えていただけないでしょうか?
”この失われた「優美さ」の(部分的)回復を目指すものとして。わたしは芸術というものを位置づけたい。その試みがある程度成功するところに、芸術の至福があり、それが挫折に終わるところに芸術家の憤怒と苦悩がある”
コメント by keita — 2010/11/7 日曜日 @ 18:52:26