こうして、今や芸術は死んだ
芸術の歴史のごくはじめの頃から、芸術作品は、芸術についてのさまざまな記号の操作として、その内部で二重化される。芸術のもつ重層的表意作用(「記号表現のアカデミズム」とレヴィ=ストロースならいうだろうが)、じっさいに、作品に記号としてのフォルムを与えるのだ。このときから、芸術は無限の再生産〔=複製〕の段階に入る。芸術の内部で二重化されるものはすべて、たとえ日常的な現実が平凡なものであっても、ただちに芸術の記号に補足され、その結果、美的なものとなる。生産についても同じことで、今日では生産が、この美的二重化の段階、つまり、生産が、あらゆる内容と合目的性を追放して、いわば抽象的になり、その形象性を失う段階に入ったといってよい。この段階の生産は、純粋な形態の生産であって、芸術と同じく、無限の合目的性という価値を受けとるのである。こうなれば、芸術と産業が、お互いの記号を交換しあうことも可能になる。機械はもはやひとつの記号にすぎない以上、芸術は芸術的であることを止めずに、複製のための機械となることができる(アンディー・ウォーホール)。そして、生産の方はあらゆる社会的合目的性を失い、ついには、威信表示的、誇張的、美的等々の記号(巨大な工業コンビナートや高さ400メートルの超高層ビルやGNPを表す神秘的な数字など)にまで高まることができる。
こうして、今や芸術はいたるところに存在する。というのも、人工的なものが現実の中心を占めるようになったのだから。こうして、今や芸術は死んだ。というのも、芸術の批判的超越性が姿を消したばかりでなく、現実自体が、その構造性そのものにつきまとう一種の美学にどっぷりとつかってしまい、現実のイメージにすぎないものと混同されてしまったのだから。現実が現実としての力を発揮する時間さえ失われてしまった。もはや、事実は小説より奇なり、というわけにはいかない。現実は、一切の夢を、それが夢としての効果をもたないうちにとりこんでしまう。偽物もつくられず、昇華も不可能な、これらの大量生産される記号、反復されることによってしか意味をもたない記号の、精神分裂的な眩暈があるばかりだーーこれらの記号のおこなうシミュレーションの対象となる現実はどこにあるのか、誰にもわかりはしない。記号は、もはやなにも抑圧さえしない(もっとも、そのために、お望みならシミュレーションが精神病の領域にまで入りこむのだが)。ごく基本的な過程さえ、ここでは廃絶されてしまっている。コンピュータ的二進法のクールな世界が、隠喩と換喩の世界を吸収しているわけだ。シミュレーションの原則が、〔フロイトの〕現実原則と快感原則を打ち破ったのである。
『象徴交換と死』 ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史 訳 筑摩書房 1982
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