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2008/6/9 月曜日

芸術家たちが、これほどまでにしばしば革命的政治へと引き込まれていったのはなぜなのか

Filed under: 引用 — nomad @ 22:38:47

前衛主義の思想史

芸術家たちが、これほどまでにしばしば革命的政治へと引き込まれていったのはなぜなのか前衛主義的習慣から社会理論を切り離すことは、難しい仕事のように見えるが、それは、近代の社会理論と前衛という考え方が多かれ少なかれ一緒に誕生したからである。他方、芸術のアバンギャルドという考え方もそうなのであり、この三つの関係それ自身が、いくつかの予期しなかった可能性を示唆している。

アンリ・ド・サンシモンは、彼の生涯の最晩年に書いた一連のエッセイのなかで「アバンギャルド」という用語を作り出した。彼のかつての秘書であり弟子であった人(そして後に厳しいライバルとなったオーギュスト・コント)のように、サンシモンは、フランス革命のすぐあとに筆を執り、何がいけなかったかを根本的に問うていた。すなわち中世の封建主義的カトリック社会から近代の産業的民主的社会への移行が、これほどの激しい暴力と社会的混乱を作り出したように見えるのはなぜかと。問題は、全体的な社会秩序のなかで意味ある位置を占めているという感覚をあらゆる人びとに与えていた中世の教会と同じような役割を果たすイデオロギー的凝集性の力を近代社会が持っていないことにある、と彼は結論づけた。サンシモンとコントは、彼らの生涯の終わりに向けて、最後に彼ら独自の宗教を作り出すことになったが、サンシモンは自分の宗教を「新しいキリスト教」、コントは「新しいカトリック」と読んだ。前者においては、芸術家が究極の精神的指導者の役割を果たすとされていた。科学者との想像上の対話のなかで、サンシモンは、実現可能な未来を想像し公衆を鼓舞するという役割を果たすことで、アバンギャルドの役割、すなわち彼の言う「真に司祭的な機能」を果たすことができるのだと説明する芸術家について述べている。彼の理想とする未来では、芸術家は思想を孵化させ、そしてその実行は科学者や実業家に任せることになる。おそらくサンシモンは、「国家の死滅」という観念を思いついた初めての人であった。権威的機関が公衆の善のために働くことが一度明らかになれば、患者を医師の助言に強いて従わせる必要がないのと同じように、公衆をそれら機関の助言に強いて従わせる必要も無くなるというわけである。政府は、せいぜいいくつかの取るに足らない警察的機能に縮小されることになるだろう。

コントは、もちろん社会学の創始者として最も有名であり、彼が「帝王学」と見なしたものを描き出すための用語を発案したが、その学問とは社会を理解することも社会を指導することもできるものであった。彼は、最後にははるかに権威主義的なアプローチを採用するようになり、最終的には彼の新しいカトリックにおける大司祭の役割を社会学者自らが務め、科学的原則に従って人間生活のほぼあらゆる価値を統制し管理することを提案した。

これは、特に注意を引きつける対比であるが、それは二〇世紀の前半に、立場が事実と逆転したからである。芸術家に指導性を求めるサンシモン主義左派と、他方、自らを科学者であると空想するコント主義右派にかわって、われわれは、大衆を鼓舞して自分たちの壮大な想像図に従って社会を形づくる偉大な芸術家であると自らを想像する、ヒトラーやムッソリーニのようなファシスト指導者と、科学者としての役割を要求するマルクス主義的前衛を見出すのである。

いずれにせよ、サンシモン主義者たちは、彼らのさまざまな冒険的試みや、サロンや、ユートピア的コミュニティのために積極的に芸術家たちを集めようとした。けれども、アバンギャルド的な芸術家サークルのなかの非常に多くの者たちは、もっとアナーキスト的なフーリエ主義のほうを選び、後には正真正銘のアナーキストの潮流のうちのどれかを選んだために、サンシモン主義者たちはすぐさま困難にぶつかった。マレーヴィチからピカソにいたるまでの後に共産主義者になった二〇世紀前半のほとんどの芸術家は言うまでもなく、実際、アナーキズムへの共感を抱く一九世紀の芸術家の数は驚くほどで、ピサロから〔レフ・〕トルストイ、あるいはオスカー・ワイルドにまで広がっていたのである。ラディカルな芸術家たちは、必ずと言っていいほどに彼ら自身のことを。未来社会への道を導く政治的前衛というよりは、より疎外されていない新しい生活様式の探求者と見ていた。一九世紀における実に意義深い発展は。前衛という思想よりもボヘミア〔ボヘミアン的な空間〕という思想であった(この言葉は、一八三八年にバルザックによって初めて作り出された)。すなわちボヘミアとは、多かれ少なかれ自ら望んだ貧困のなかで生活し、自らを創造的で疎外されない体験の追求のために捧げるものと考え、ブルジョア的生活とそれが表象するあらゆるものにたいする強い嫌悪によって結合した周縁的なコミュニティである。イデオロギー的には、彼らは、ほとんど同じように「芸術のための芸術」の唱道者あるいは社会革命家になることが多かった。

一九世紀には政治的前衛という思想は、自由な未来社会への道を探っていると見られていた者たちにたいして、非常に広範かつ非常に曖昧に用いられた。例えばラディカルな新聞は、しばしば自らを「アバンギャルド」と称した。けれども、プロレタリアートが資本主義によって最も抑圧されており、あるいは彼が言ったように「否定」され、したがってその廃棄によって失うものが最も少ないという理由から、プロレタリアートこそが真に革命的階級であるという観念を導入することによってこの思想を非常に大きく変えはじめたのはマルクスであった──彼自身は実際にはその著作のなかで「前衛」という言葉を使ったことはないのだが。そうすることで、マルクスは、芸術家であろうとアナーキズムの主力をなす傾向にあったある種の職人や独立生産者であろうと、労働者に比べて疎外されていない諸集団が寄与できる重大なものをもっているという可能性を排除してしまったのである。その帰結は、われわれすべての知るところである。歴史の担い手として選ばれた最も抑圧された階級のための知的プロジェクトを組織し提供し、さらには暴力を利用しようとする彼らの意志によって実際に革命を引き起こすことを目的とする前衛政党という思想は、一九〇二年に「何をなすべきか」でレーニンによって最初に描き出され、それ以降絶えることなく繰り返し述べられてきた。自らをますます前衛政党のように組織しはじめた芸術家のアバンギャルド、すなわち自らの独自のマニフェストやコミュケを発行し、お互いをパージしあい、そうでなければ自身を(ときには非常に国際的な)革命的セクトのパロディにした、ダダイストや未来派から始まる芸術家のアバンギャルドにこうしたすべてのことが奇妙な影響を与えた。最終的な融合はシュールレアリストのインターナショナル、そして最後に状況主義者のインターナショナルとなって実現したが、それは、一方では芸術と生活の境界線を壊すことを実際上意味することになるのは何かについて考え、革命的行動の理論をボヘミアの精神にそって発展させるように努める最も組織的なグループであると同時に、しかし他方では、その唯一の論理的帰結はインターナショナルが結局のところ二人のメンバーにまで減少し、その二人のうちの一人がもう一人をパージし、そしてその後に自殺を図るのだと最終的にギー・ドゥボールに言わしめたほどに多くの分裂とパージと激しい非難に満ち溢れた狂気じみた類いのセクト主義を、それ自らの内的組織構成において示すことになった(実際のところそれは、現実に起こってしまったこととそんなには違わなかった)。

疎外されていない生産

芸術家たちが、これほどまでにしばしば革命的政治へと引き込まれていったのはなぜなのか。その答えは、疎外と関係しているに違いないように私には思われる。一方において、最初に事物を頭のなかで想像し、そしてその後にそれを実際に作り出す経験──つまりはっきりした形態での疎外されていない生産の経験──と、他方社会的オルタナティブ、とりわけより疎外されていない形態の創造性の上に成り立つ社会の可能性を想像する能力とのあいだには、直接的なつながりがあるように思われる。このことが、前衛を比較的に疎外されていない芸術家(あるいは知識人)として見ることから、「最も抑圧された者たち」の代表として見ることへの歴史的な変化を新しい光明のなかで理解することを可能にするかもしれない。実際、革命的連合は、常に社会の最も疎外されていない部分と最も抑圧されている部分の連合からなる傾向にあるのではないかと思われるのである。これは、一見した感じよりもエリート主義的ではない定式化であり、というのもこれらの二つのカテゴリーが重なるときに、実際の革命が起こる傾向にあるように見えるからである。いずれにせよ、実際に蜂起して資本主義体制を転覆するのが、数世代にわたる賃労働の経験に慣らされた者たちではなく、ほとんどいつも小農民と職人──あるいは以前の小農民や職人から新しくプロレタリア化された者たち──であるように見えるのはなぜかをそれが説明しているのである。最後に、このことはまた、「反グローバル化」運動と普段言われている地球規模の蜂起のなかで、先住民闘争のもつ多大な重要性を説明することに役立つのではないかとも思われる。つまり、そうした人びとは、地球上でまさに最も疎外されていないと同時に最も抑圧されている人びとであることが多く、いったん彼らを革命的連合のなかに引き入れることが技術的に可能となれば、彼らが主導的役割を握るようになるのはほとんど不可避なことなのである。

先住民の役割は、今度は、前衛主義的でないと称する革命的知識人にとってのありうるモデルとしての民族誌の役割へと私たちを再び立ち戻らせる。そこには同時に、潜在的な落とし穴もあるのだが、明らかに私が提案していることは、それが、ある種のユートピア的な外挿法と結合した自省的民族誌という形態を究極的に取る場合に限ってうまくいくものである。つまりそれは、特定の形態のラディカルな実践活動の根底にある暗黙の論理あるいは原則を抽出してきて、次にそれらのコミュニティにその分析を送り返すだけではなく、新しいビジョンを定式化するためにその分析を利用することである(例えば、「もしあなたが政治的組織に当てはめているのと同じ原則を経済学に当てはめたとしたら、これとは違ったようになるのではないだろうか」というように)。ここでも、ラディカルな芸術家運動のなかにそれに相当する示唆的なものが存在するが、この運動は、まさに彼らが彼ら自身の批判者となったような運動であった。そしてさらに、まさにこうした種類の自省的民族誌の仕事をすでになそうとしている知識人たちも存在する。しかし、以上のことすべては、モデルを提供するのではなく、まず第一に前衛主義という観念自身ですらわれわれのほとんどが予想していただろうよりもはるかに豊富な歴史をもち、オルタナティブな可能性に満ちているということを強調することで、議論のための場を開くためのものであることを述べておく。

「前衛主義のたそがれ」 デイビッド・グレイバー 『世界社会フォーラム─帝国への挑戦』第5部 WSFの展望──可能な未来、可能な世界 作品社 2005年

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