現代に持ち込まれた中世の暗黒。白日の下に展開される地獄図は、感傷を捨てた純粋な画家の目から眺めれば、ボッシュが描きボードレールが歌いあげた詩の世界にも似て、凄まじくもまた美しい光景であった
初年兵哀歌
浜田知明
昭和九年(一九三四年)に私は東京美術学校油画科に入学し、昭和十四年(一九三九年)に卒業した。われわれの世代は大正デモクラシーなるものを知らない。しかし昭和九年から十四年という時期は、戦前の日本経済が最も活況を呈した時であり、やがてくる戦争への不安をはらみながらも頽廃のムードを秘めて平和をむさぼっていた時から、二・二六事件や中華事変の勃発を挟んで、日本が急速度に軍国化へ傾斜しはじめるきわめて変化に富んだ時期にあたっている。事変勃発と同時に召集された親友Kが戦死し、卒業を真近に控えた頃、左翼的な思想をもつという理由で親しい友人の幾人かが警察へひかれていった。数年後に学生生活を送った人たちの多くが、軍国主義一色に染め上げられ、あるいは強制された時代に育ったとするならば、われわれは恵まれた学生時代を送ったということができるかもしれない。
当時の美術学生の関心は、第一次大戦と第二次対戦の間の平和の谷間に花咲いた、第一次エコール・ド・パリにあったといえるだろうと思う。しかしヨーロッパにもようやく戦雲濃く、スペインの内乱が起り、ダリが「内乱の予感」(一九三六)を、ピカソが「ゲルニカ」(一九三七)を描くことになる。
私の求める絵画が単なる人物や風景の写生画でないことだけは、はっきりと分かっていた。しかしこれからどのような作品を描くかはまだ模索しはじめたばかりであり、果たして自分が作家としてこれからの美術界に処していくことができるかさえ分からぬ不安を抱きながら、昭和十四年の冬に現役兵として入隊した。
入隊した以降のことについては私は他の場所で書き、あるいは喋ったことがあるが、誤解のないように言っておけば、私は決して勇ましい反戦の闘士でもなければ、反軍の闘士でもなかった。もっともその当時、明らさまに反戦や反軍を意思表示したならば、直ちに軍法会議に引き出され、刑務所に放りこまれるか、その生命も保証されぬ時代であった。
私は本来人間は基本的に平等であるべきものだと信じていた。しかるにこの軍隊という社会は、1つ星の初年兵を底辺としてピラミッド状に階級があり、その階級差と年次とを厳格に守ることによって秩序が維持されていた。旧日本軍隊のやり切れなさは、戦場における生命の危機や肉体的な苦痛よりは、内務班や内務班の延長上にある戦場での生活において、戦闘行為遂行に必要な制度として設けられた階級の私的な悪用からくる不条理にあった。
戦地に一歩足を踏み入れた時、そこで行われていることが大東亜共栄圏建設のための聖戦という美名といかに裏腹なものであり、日本国民の福祉のために行われているはずの戦争が、実は日本を支配しているごく一部の人達のためのものであるらしいことを私は知った。
国体について、軍について、上官について、一切の批判は許されなかった。絶対服従と事あるごとに加えられる不当な私的制裁の下で生き抜くために、兵隊たちは要領よく立ち回ることを覚え、一人の人間から一箇の歯車に転化していった。不条理と矛盾の渦巻く中で、それでもモノを考えることを止められなかったものは、どのような生き方を選べばよかったのであろうか。
何一つ明るい希望はなかった。いつ果てるとも知れぬ戦争と、納得できぬ戦争目的と、抑圧された自由の屈辱から、自殺への誘惑が間歇的に自分を襲った。
軍隊内部の不愉快さに比べ、華北山西省の荒涼たる風景は私を魅了した。黄土地帯の厚味のある大地は果てしなく広がり、地平を遮る台地上の塔に、行軍に疲れた心は和んだ。黄河は悠々として流れ、楊柳の芽ぶく時、人物を背中に載せた驢馬の姿は、まさに一幅の絵であった。県城の城壁が深々と黒い陰を落とし、広野が夜の帷に包まれると、赤みを帯びた巨大な満月が東の空にのぼった。暑さに喘ぎ、雨に濡れ、汗にまみれ、埃にまみれ、背骨に食い入る装備の重さに堪えながら、馬を索き、砲車を軋ませて大部隊が通り過ぎた。多くの人が死に、馬が斃れ、庭先には家具類が散乱し、民家からは煙が上がった。やがて死体は張り裂けんばかりにふくれ、傷口には蛆虫がわき、腐肉を求めて鳥が舞い、野犬が彷徨した。
現代に持ち込まれた中世の暗黒。白日の下に展開される地獄図は、感傷を捨てた純粋な画家の目から眺めれば、ボッシュが描きボードレールが歌いあげた詩の世界にも似て、凄まじくもまた美しい光景であった。
いずれにせよ日本の敗戦によって、私はようやくにして軍隊生活から解放されて自分のアトリエに戻ることができたが、既に画風の確立していた既成の作家たちとちがい、六年間の空白を背負って学生時代と繋がっているにすぎなかった。
入隊前の私は、おぼろげながらモンドリアンやアルプのような仕事に進むのではあるまいかとも考えていたことがある。ギリギリまで計算されたモンドリアンの清潔な画面や、その全く逆の立場から天衣無縫に生み出された「人体凝結」など、アルプの一連の彫刻。しかし、今しがた戦場から離れてきたばかりの私にとっては、この目で目撃した戦場の生々しい光景や、軍隊から受けた心の疼きを表現するための手法としては適当ではなかった。
モチーフは決定している。問題は表現の方法だけであった。単なる戦場の表面的な描写ではよく戦争を描き得たということにはならないし、人間心理の深層にまで照明をあてることはできない。あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手がかりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまうおそれがある。時代の思潮に敏感であろうとするような、新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥せず、是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を選んだ。ひたすらに自分に忠実であろうとすることだけが私の支えであった。戦場と軍隊をモチーフとして若干の作品が生まれた。私の非力が、戦野で繰広げられた壮大なロマンや、軍隊の軛の下で流された初年兵の涙を、充分に描きえたとは思わない。しかしいずれにしても、この戦争に生き残ったものとして、それは私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである。
(版画家)
東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』207号(一九七二年二月号)5ページ
〈特集〉私の戦後美術
『美術家たちの証言』 美術出版社 二〇一二年
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