国家・政党・イデオロギーこそが政治の中心にあるといった考えに、77年運動が取り憑かれることはないだろう
一見すると、この社会は、行動の自由を最大限に保証している。個々人はしたいことをできるし、何ひとつ規則を押しつけられることもない。個人の態度も集団的規律・訓練化を強要されることもない。しかし管理は、人間の頭脳という装置のなかに挿入されている。関係を形成すること、言語、コミュニケーション、交換自体を可能とする装置のなかに、それは挿入されているのだ。管理を特徴づけるのはその浸透性である。管理は、政治的に中央集権化されているわけではないのである。77年運動はこの不確かな圏域を知覚している。当時、ちょうど70年代の末に、思想上の優位性が構造主義からポスト構造主義へとはっきり移行しはじめていたのは偶然ではないのだ。ぼくたちはそれをリゾーム的指向、増殖する思考と呼びたいと思う。ドゥルーズ・グァタリの『アンチ・オイディプス』のなかで、この思考のかたちはもっとも鮮烈に表現されている。分裂症的創造力によって、パラノイア的規律・訓練型表象の場は強奪されることになるのだ。国家・政党・イデオロギーこそが政治の中心にあるといった考えに、77年運動が取り憑かれることはないだろう。運動が好むのは、自らの注意力、変質をもたらす行為、コミュニケーションを、もっと散らばった領域に分散させることだ。たとえば、居住形式、ドラッグ、セクシュアリティ、労働の拒否、倫理を通じて、モチベーションを喚起する労働のありかた、創造性といった領域に。
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